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2008年6月22日 (日)

「父の日に想う」に想う

父の日に想う
という同じ文章を先週、ブログとSNSの日記、同時にアップ。
キャラ違うだろ、と自分でツッコミ入れつつ書いてしまいました。
この日記、最初下書きをしてみたもののあまりに個人的な内容で
しばらく迷ったんですが…結局晒しました。
 
結果的には、読んでくれた方々からブログ、日記、合わせると
ホントにたくさんのあたたかいコメントをいただきました。
いただいたコメントのひとつひとつが、私の記憶の中の父に
もう一度命を吹き込んでくれたような…不思議な感じです。
 
いただいたコメントを読んでいて感じたこと考えたこと、
“親子”について、もう少し書き足したくなりました。
  

 
思い返すと子供の頃の自分にとって親って絶対的な存在でした。
特に小さいとき、養ってもらっている間“大人”の基準は親だった。
親は自分を育てる存在、教育する存在、守る存在なわけで
子供の視点から見たら、親は完全・万能な存在であるのが当たり前で
子供にとって親の不完全さ、欠点は許し難いものだったりします。
 
子供の反抗期って、子供の精神的な成長にともなって
「親も不完全・不安定な人間だ」と気付いたときに始まる、
そんな側面もあると思います。
 
私自身も親に反抗していた時期はありました。
父親を憎んだこともあります。親子喧嘩して
「おまえみたいな大人には絶対にならない!」
そう罵倒したこともありました。
間違った方向へ導かれちゃたまらないと思ったし。
 
でも親も人間で、欠点もあるし間違いもあるし
不機嫌なときは八つ当たりもするものですよね。
もちろん「親」が自分から“不完全な人間であること”を
子供にも自分にも言い訳にし続けて、子供を育てる努力、
教育する努力、完全であろうとする努力を怠けちゃ
そりゃ親として失格だと思うけど。
 
子供のほうも…
絶対的な存在じゃないとわかって反抗し否定したくなる。
その時期を超えてもっと成長して自分も大人になって…
そこではじめて“自分の親”という存在の不完全さを許容して
本当の意味で愛することができるようになるのかもしれない。
 
そして子供が成長しきって、親子が対等な大人同士になったとき
親という存在が子供に対して“完全”なことがあるとすればそれは…
“無条件に味方である”ということだけかもしれません。
 
私は「親」をしたことがないので
「子供」の立場では語れても「親」の立場で語る資格はない、
語ろうとしても上っ面でしか語れないのかもしれませんが
そんなことをグダグダ考えてしまいました。
 
 
  
ここからかなり脱線 
私つよぽん、お得意の無理矢理こじつけの例え話ですww
 
医師と患者と恋愛関係(医師の誤診と悪意 その3)
医師と患者の依存関係(医師の誤診と悪意 その4)
医師と患者の関係を恋愛や結婚、男女関係に例えてみたりしましたが
親と子の関係にも例えられるなぁ…ということ。
「親→医師」「子供→患者」に置き換えて読み直す。
どうでしょう…。
 
医師は患者にとって、
自分を病気から助ける存在、守る存在なわけで
患者は医師が完全・万能な存在であるという錯覚をしていたり
完全な存在であってほしいと願っているでしょう。
患者にとって医療の結果得られるものや医師そのものの
不完全さ、欠点は許し難いものだったりします。
でも医師も医療も不完全で不安定なものです、残念ながら。
 
もちろん「医師」が自分から“不完全な人間であること”
を患者にも自分にも言い訳にし続けて、患者を治す努力、
施す医療を完全に近づけようととする努力を怠けちゃ
そりゃ医師として失格だと思うけど。
 
患者のほうも…
 
医師が神様でも絶対的な存在でもないと知りつつ命を預ける。
“主治医”という存在の不完全さを許容してはじめて
本当に病気や怪我と戦うことができるのかもしれない。
 
医療が患者に対して“完全”なことがあるとすればそれは…
病気と闘う、病を治すという同じ目的においては
“無条件に味方である”ということだけかもしれません。
 
と、またきれい事を書いてしまいましたねcoldsweats01

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コメント

医師患者関係はかつてパターナリズムでしたから、たしかに父子の関係に似ている部分も大きいですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/パターナリズム
で、今はインフォームド・コンセントが大切!という方向にいきますが、インフォームド・コンセントは元々は病気で治療がうけたい、でもお金がないから標準的治療は無理、あとは無料で受けられるのは治験、という状態に対して勝手にやって「人体実験じゃ、ヘルシンキ宣言違反じゃ」と言われちゃなんねえということで行われるようになったものですから、あんまりIC、ICと言われるとイヤになります。

投稿: ずっと勤務医 | 2008年6月22日 (日) 21時50分

子はいつか親になることで、親の心を追体験することが可能ですが、
患者がいつか医師になり、同じ心を追体験することはめったにありませんよね。
それだけに両者の間には、
親子の間より深い河が流れているのかもしれません。

それでも、同じ河の右岸と左岸、
同じ流れを見つめていると信じたいです。

投稿: 蝸牛 | 2008年6月22日 (日) 22時22分

(うわっsign03一番取り損ねたcrying)

ビックリしました。
私、以前のブログで『絶対的見方』という話、書いた事ありました。
更に、先日もちょっとお友達とトラぶって先生に『私は子供の絶対的見方でいたい』と話したばかりでした。

親になってないつよぽんセンセが同じ事を書かれたので驚きました。


投稿: まりん | 2008年6月22日 (日) 22時24分

↑同じじゃなかったですねsweat01
『無条件に見方』でしたね。。
私の考えてる意味合いは同じだったので・・・coldsweats01

投稿: まりん@訂正 | 2008年6月22日 (日) 22時27分

見方と味方の違いが一番大きい。

投稿: | 2008年6月23日 (月) 09時03分

つよぽんセンセ、こんにちは。

お久しぶりにおじゃましてます。
お元気ですか?
私は・・・まあ元気かも。。。多分。
とにかく急がし急がし毎日です。

医者と患者は、やっぱ恋愛関係のほうが近いなあ、、、
私の不得意なやつだね ↑ 男女の関係を構築できない女

わつぃもね、つよぽんと同じ年齢で父親亡くしましたですよ。奇遇ですたね~。~(おまえそれ奇遇っていうかフツウ
13回忌までは、毎日、いつでも思い出し泣きできましたよweep。アハハhappy01

今じゃもう、すっかり子どもにお世話になってますよ。
イヒheart。いまじゃ、私のことを世話のやける子どものように思ってるかも知れません、うちの子たち。
こんな親でスンマソ。

ではでは、また、お江戸でお会いしましょ。かな?

投稿: saku@マジで避難所みたいだね | 2008年7月 3日 (木) 20時57分

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