医師の誤診と悪意 その1
昨日未明、ネット上のある医療系コミュニティに「祖父の死。そして誤診。」というトピック(掲示板で言うスレッド)が立ちました。あっという間に十数コメントついて、すぐにトピックが消えた。立てた本人が削除したらしい。
某病院で祖父が手術を受けた。1週間以内に再手術になった。その数時間後に容態急変して死亡した。医師への質問と、それに対する回答はICレコーダーに記録した。自分たち家族は明らかな誤診と確信している。そんな内容でした。文章は、体裁としては質問でも相談でもなく「無念さと悔しさで言葉になりません。」という言葉で締めくくられていた。
ネット上、医療者や患者が集まる場では純粋な医療相談だけではなく、こういう発言をよく見かけます。期待した結果が得られなかった治療、現在かかっている病院、医者に対する不満、不信、疑心を吐露するもの。患者や患者家族の、直接医師に言えない感情の捌け口だったり、賠償請求や医療訴訟を視野に入れた情報集めだったり。書く人は「気持ちわかります、私も…」「別な医者に行ったほうがいい」「その医者おかしいよ」「そんな医者は叩きのめせ」そんなレスポンスを期待しているのかもしれない。
そのトピックを見て「またか…」と思ってしまった。患者は、患者の家族は「病院で治療を受けること=病気が治ること」と思ってしまう。治療を受ける側にとってはそれが自然な感覚なのかもしれない。でも医療は万能じゃない。
文章から私は主治医に対する不信、憎しみ、敵対心、結果を出せなかった医師に対する戦闘準備態勢を感じて、最後の一行「無念さと悔しさで言葉になりません。」を切り返してコメントを書いてしまいました。
「自分がこの世に存在することに価値を見いだそうと
医師という職業についてはみたものの
世の中にはこんな患者の家族が多い現実を知り
無念さと悔しさで言葉になりません。」
直後、別の発言者に「まあ落ち着いてもう少し詳しくトピ主の話を聞きましょうよ。」とたしなめられた。詳しい状況を知らずに「こんな」と書いたのは軽率でした。家族をなくした直後の感情に無配慮だったかもしれない。
ここ最近、大野病院事件などを報道で知るだけでなく、私の身近な親しい先輩や後輩医師も次々と理不尽な訴えられ方をしています。罪人扱いされたり、されそうになっている私の仲間達、患者の家族から思いっきり恨まれ憎まれている私の仲間達、おしなべて患者に優しい医師であり、仕事に真摯な姿勢を持つ医師ばかりです。皮肉にも最前線で頑張り続ける情熱を持つ医師ほどそんな局面に立たされているのを目の当たりにしている。そんな背景もあって少し勇み足な発言してしまったかもしれません。
消えたトピック、医師は本当に誤診したのか? 医師は悪意を持って治療にあたったのではないはず。「よかれ」と思って自分なりの最善を尽くしたつもりでも残念な結果だったとき、家人に非難され罵倒され訴えられたら…それが私だったら?その突き刺さる憎しみを、私は黙って引き受けられるだろうか?
最近の医療訴訟、医師は「期待権の侵害」という訳のわからない理論で裁かれる。
言ってしまえば私も、他の医師たちも、毎日ロシアンルーレットをやっている状態です。医療というピストルを自らのこめかみに当てて、治療、手術という引き金を弾き「あ、今日は生き延びた。」そうやって診療を続けている。事故があれば“当たり”、訴訟で“大当たり”です。100点満点のテストで90点取っても評価されず「なぜ100点取れなかったんだ!」と責められ、10点分の失点の責任を取れと詰め寄られる。
それなら我々が学んできた医学という不確実な学問は行使すべきでないのだろうか?
確かに人間が人間に対して、命を左右するような行為はおこがましいことかもしれないとは思う。しかし合併症てんこ盛りの超高齢者であっても、誰が見てもピットフォール満載と思えるリスキーな病状であっても、放っとけば放っといたで予後不良なのが明白なのに見て見ぬふりができるだろうか? 病んでいる、傷ついている患者が目の前にいて、それを治せる(かもしれない)知識や技術を持ちながら手を出さずに立ち去れるだろうか? 最初から家族が医療不信を露わにしていたら、ミスがあったら許さんという猜疑心を露わにする家族がついてきたら…当の患者が苦しんでいても助けないのが自分にとって正しい選択なんだろうか?
結局は、凶器となりうる危ない剣を
患者という他人に向けて振り回すと同時に
自分のこめかみに当てた銃の引き金を
引き続けている馬鹿者共です、我々は。
でも今の私は『馬鹿者であり続けること』で自分のアイデンティティを保っているらしい。じゃ明日は? 1年後は? わかりません。願わくば今のままの自分でいたいけど。
なーんか重たい文章を書いちゃいましたね。まいっか
次回は軽めに行きます(^^;)
ある産科医のひとりごと:大野病院事件
詳しくまとめてあるサイトです。
太い糸で縫合したからガス壊疽が起きた?!:日経メディカルオンライン
この事例も…大きなニュースになっていませんが救急医療にとっては大野病院と同じくらいメガトン級のヤバイ裁判だと思ってます。
☆医療問題を注視しる!☆
大野病院の事例をはじめとする医療問題を医療業界外の方が見事に論じています。
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コメント
Dr.に対して患者側が生前から好意的な感情があったかにも死後の感情が変わってくるのかなぁと思ったりも。
助かって当たり前がそうでなかった時に、人の感情がどうなるのかを目の当たりにしている医療現場の人も人間の感情を持っている事を忘れてはいけませんね…
とても考えさせられました。
何か意味不明なコメントですみません…
投稿: アッキィ | 2008年3月27日 (木) 10時19分
医療がそもそも不確実なものであることを、
受ける側が知らなすぎる。
人体や命のあやうさについて、患者側に基礎的な知識が欠けていることが、
巷の医療不信の根本にあるような気がします。
投稿: 蝸牛 | 2008年3月27日 (木) 10時23分
>アッキィさん
患者側とのよい関係が築けていても後から変わること、
確かにそれもあります。
元気で退院する人ばかりではない、それは仕方がない。
それでも十分に尽くせば感謝はされるんです。
後から変わるのは、その後の生活の変化のせいだったり
リアルタイムに我々医療者と患者の関係を見ていなかった
例えば“遠くの親戚”とかに「医療ミスじゃないの?」とか
言われるのがきっかけになったりするんですよねぇ。
>蝸牛さん
確かに「そもそも人間とは限りある命である」ということ、
そういう死生観がなくなってきているのかもしれませんね。
でもそれを我々医療者側が声を大にして言うと、医師が、
医療そのものが未熟であることに対する言い訳に聞こえて
反感を買ってしまいやすい。難しいところです。
投稿: つよぽん@シラフ | 2008年3月28日 (金) 07時26分
死生感を教えるのは、本来家庭の役割だと思うんですよね。
立つフィールドが違う医療者にそれを求めては、
かえって反感や誤解を招きかねないというご意見に同意です。
家庭が役割を果たせないなら、
学校教育に組み込むことを考えた方がいいかもしれませんね。
投稿: 蝸牛 | 2008年3月29日 (土) 01時30分
自分に甘く、他人に厳しく。
世間一般はそんなものではないでしょうか。
どうしても、甘く期待してしまうところがあると思います。
ラポールができあがっていると思っても、(勝手な)期待がはずれると、それをどこへ持って行けばいいのかわからなくて、blogのようなところで発散ということになるかと思います。
生活の知恵として気象予報を参考にするのがいいと思います。
「日本列島嵐になると予想されます。」
翌日は小雨しょぼしょぼ。
今にも死にそうとまではいいませんが、「もうお年ですからねえ、何があっても」の一言は必ず添えるべきではないでしょうか。
患者が後期高齢者の場合はこの言葉は必須と考えます。
投稿: 覚蓮坊 | 2008年3月30日 (日) 04時50分
臨床でいろんな患者さんや家族に会います。
治して当たり前・・・そんな患者家族が最近多いような気がします。
入院してやったんだ。
おれたちがいるから病院は儲かって、医者や看護師は給料もらっているんだろう。
なんて言われることもあります。
患者さんに対して悪意を持って接しているDr.やNsはいないでしょう。
(心の中はわかりませんが・・・)
出来れば助かってほしい、助けてあげたい、少しでも長く家族のそばに・・・と思っているはずなのです。
それが伝わらないことが歯がゆいです。
数年前にこんな経験をしました。
腹膜透析を導入して7年ほど経った患者さん。
大腿骨頚部骨折の手術を終え自宅に退院して1年ほど経っていました。
肺炎で入院し増悪と寛懐を繰り返し徐々に体力も落ち、本人も「もう楽にしてくれ。透析を導入することになった時に1度死んだ命だから2度はいい。」と何度も訴えていました。
肺炎の急性増悪で最期の時を迎え毎日病院に通っていた奥さまは深々と頭を下げられ感謝の意をおっしゃってくださったのです。
そこで、遠くの親戚・・・このときは患者さんの実兄でしたが医師に対し、私たちに対し罵詈雑言を浴びせたのです。
ただ、聞くしかありませんでした。
1週間後、奥様と息子さんたちが入院中のお礼と最期の時の言葉に対しての謝罪に見えました。
帰った後、今までの経過を知らないくせに・・・とお兄さんを説得してくださったとのことでした。
患者さん、家族との信頼関係を築くことが重要だなと感じた症例でした。
なんか長々とごめんなさい。
同じ思いをしている医療関係者はきっと多いんだろうな・・・と思っています。
少しでも患者さん・家族に私たちの思いが届けばなぁと思います。
投稿: かんちゃん | 2008年3月30日 (日) 13時09分
>蝸牛さん
死生観…日本人ってあまり宗教に頼らない分neutralな反面、
死や生を深く考えるのが苦手かもしれません。
家庭で、学校や教育の場で、そういうのを学べるといいんですけどね。
>覚蓮坊さん
「もうお年ですからねえ、何があっても」
高齢者の手術の場合、必ずと言っていいほどそう話します。
それを頭で分かっても気持ちで納得してもらえないこともしばしば。
>かんちゃん
意味深い体験談の紹介をありがとうございました。
患者・家族に我々の気持ちを届ける、
押しつけではなく自然に伝わるようにしていきたいですね。
投稿: つよぽん@GWも働くぜぃ! | 2008年5月 3日 (土) 13時51分
ココを紹介させていただきました。
私の記事とココの内容と、少しズレがあるかもですが
ココでは自分の今の職場での事も含め、
いろんな事を感じるようになりました。
今までは何とも思わなかった事・行動・意見。。
自らも、改め治していけなければ、と思っています。
追記
私のブログへ来ました?
来て下さったら是非コメお願いしますね。
通りすがりはダメですよ~~~
ねっ!
センセ
wwwwww
投稿: まりん | 2008年5月 4日 (日) 08時19分
ぁあ~~~

つけて下さっていたのですね~~~
ごめんなさい~~m(__)m
昨日、
失礼しました
投稿: まりん | 2008年5月 4日 (日) 08時41分
>まりんさん
うひ
投稿: つよぽん@日直突入 | 2008年5月 4日 (日) 08時44分
まりんさんからの紹介で、記事読ませていただきました。(まだこの一本ですが)
自分のコメントにも冷静に考察されてますし、いろんな角度で考えられていて参考になりました。
友達にお医者さんが多いこともあって、いつも大変だなと思ってますが、これからも、色々とここで勉強させていただこうと思ってます。
ただ、同じ入院患者として、どうかなと思う患者さんが多かったのも事実で、大変な世の中だなと思います。
投稿: pacemaker0714 | 2008年5月 5日 (月) 10時15分
>pacemaker0714さん
読んでくれて、コメントもいただけて…ありがとうございました。
勉強だなんて、そんなためになることを書く自信もありませんが
どーでもいいことも、大事だと思うことも、織り交ぜて
自分の思ったこと、感じたことを垂れ流して行こうと思います。
生ぬるめにヨロシクですm(_ _)m
投稿: つよぽん | 2008年5月 8日 (木) 23時00分
このシリーズ、何度読んでもグンとくる。
次はいつなんでしょね~
投稿: | 2012年6月28日 (木) 23時29分